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【災害を風化させない】歴史的な一枚の写真が紡いだつながり。写真家・太田信子さんが撮り続ける理由

- 東日本大震災の爪痕は大きく、いまだ復興が進んでいない地域や悲しみを忘れられない被災者がいる
- 写真家の太田信子さんは、撮影を通して被災した人たちを笑顔にしたいと活動を行う
- ニュースでは伝わらない被災者の姿や心に秘めた思いを、写真を通して後世に伝えていく
取材:日本財団ジャーナル編集部
2021年は、東日本大震災から10年、熊本地震から5年といった、未曾有の被害をもたらした大震災の大きな節目となる年。地震、台風、豪雨、大雪と、毎年大きな災害に見舞われる日本において、私たちはどう備えるべきか。
連載「災害を風化させない」では、復旧・復興に取り組み、今もなお活動を続ける人々の声を通して、災害に強いまちづくり、国づくりを考える。
今回は、写真で東日本大震災を後世へと伝える岩手県・盛岡市在住の写真家・太田信子(おおた・のぶこ)さんにインタビュー。2012年から被災地を訪れて写真を撮り続ける太田さんが、岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」前で演奏するイスラエルの著名なバイオリニスト、イヴリー・ギトリスさんの姿をとらえた作品「レクイエム」は、歴史的な1枚となり、「日本財団写真・動画コンクール2012」(別ウィンドウで開く)の写真部門でグランプリを獲得した。
太田さんが今も被災地に足を運ぶ理由や、写真を通して伝えたいものとは。
「歴史的な一枚」。写真を通して生まれるつながり
「2012年に東日本大震災の被災地へと赴きました。海岸沿いにある“奇跡の一本松(※)”と呼ばれる松の近くにたどり着いた時、ジプシーのような編上げのブーツを履いた海外の男性がバイオリンを弾いていたんです。周りにいるのは、私も含めて数人だけ。昔ピアノをやっていたことがあるので、彼が演奏している曲の一部が分かりました。一曲はバッハの『ガヴォット』、もう一つは日本の唱歌『浜辺の歌』です。もう一曲は分かりませんでしたが、鎮魂歌のような曲でした。印象的だったのは彼の弾き方。美しい旋律を奏でる合間に、バイオリンを天に掲げたり、松を見つめたり…。こんな表現は変かもしれませんが、まるで神と対話をしているような神聖さがあり、しばらくの間、金縛りに合ったかのように動くことができませんでした」
- ※ 津波の被害にあった、岩手県陸前高田市には海岸に7万本もの松が2キロメートルにわたって植えられていたが、1本を残して全て津波に飲み込まれた。残った一本は「奇跡の一本松」と呼ばれた。現在はレプリカになっている
世界的バイオリニスト、ギトリスさんとの出会いを写真家の太田さんはこう振り返る。

当時、親日家であったギトリスさんは東日本大震災に心を痛め、多くの演奏家が来日公演を中止する中、急遽来日を決めて、東京と名古屋でチャリティ・コンサートを行っていた。東北へも足を延ばし、小学校で演奏を行っている。奇跡の一本松には、その合間に立ち寄ったのだろう。
「この写真は2012年の3月11日に撮影したもの。当時は、世界的なバイオリニストだなんて知らなかったので、次の日の新聞に彼が掲載されていて驚きました。あの時は彼の演奏する姿を見て、ただ『撮らなくては』と感じたんです」
自然とシャッターを切っていたと語る太田さんだが、そこは写真家。たった一枚の中に、東北を思うギリストスさんの思いや、大きな被害を受けながらも力強く佇む、松の姿が見事に映し出されている。目を凝らすと、右下の方に遠くで佇む人が写っており、写真の中に引き込まれるような不思議な印象を与える。
太田さんはこの写真を、日本財団が「東日本大震災を忘れない」をテーマに実施した「日本財団 写真・動画コンクール 2012」に応募し、見事グランプリを受賞した。
「写真コンクールはニュースで知りました。審査員の方が、『これは歴史的な一枚だ』と評価してくれたのをうれしく思っています。でも、私にとってもっとうれしかったのは、多くの方に写真に関心を持ってもらい、ギリストスさんご本人からも会いたいと連絡をいただけたことです」

2016年には、ギトリスさんのパリ自宅を訪問。部屋の壁には太田さんの写真が飾られていたという。この写真は、フランス・パリ市庁舎で開催された震災関連のイベントでも展示された。
ギトリスさんは、2020年12月24日、98歳で惜しまれつつ世を去ったが、彼が亡くなるまで太田さんはコンサートに足を運んだり、SNSを通じて連絡を取り合ったり、幾度となく交流を重ねたという。

他にも、太田さんの写真を見た岩手県滝沢村立滝沢第二小学校の校長から、「太田さんの写真を授業の教材として使わせてほしい」と連絡が入り、小学6年生に出前授業を行った。
またこの写真をきっかけに、イヴリー・ギトリスさんの友人で、ファッションデザイナーの故高田賢三(たかだ・けんぞう)さんと共に東日本大震災の復興支援プロジェクトを続けてきたフランス在住の渡辺実(わたなべ・みのる)さんとも交流が生まれ、日本とスペインを放送でつないだ東日本大震災の追悼式や、ウクライナ首都キエフ・チェルノブイリ英雄公園で行われたチェルノブイリ爆発事故犠牲者追悼式にも参加したという。


「まるで(写真が)意志をもった人間みたい。東日本大震災のことを知ってもらおうと国内外のいろいろな場所を歩き回っている気がします」と太田さん。今も世界のどこかで彼女の写真を誰かが眺めて、思いを馳せているのかもしれない。
写真を撮り続ける理由
太田さんとカメラの出会いは、30年ほど前に遡る。海外旅行をした際、コンパクトカメラで撮影をしていたものの、現像してみると気にいる写真がなく、一眼レフを購入し写真講座に通い始めた。その中で、風景よりもスナップ(日常生活や出会った景色を、ありのまま撮影する写真)の方が向いていると気付き、さまざまなコンテストに応募し200回以上入選を果たしている。
「私も岩手県出身。東日本大震災では、大船渡市に住む親戚も被災しました。震災当初は、凄惨(せいさん)な現場の写真はプロに任せ、アマチュアは控えるべきだと考えたので、実際に現地に行ったのは2011年の11月からですね」
現在も足繁く被災地に赴き、シャッターを切り続ける太田さん。その理由は、「笑顔を見たいから」とシンプルなものだ。
「私が撮るのは、現地の人です。『写真を撮っていいですか?』と声を掛け、カメラを向けると笑顔になってくれる人たちがいます。また、実際に撮った写真をお見せすると『楽しかった』とうれしそうにほほえんでくださる方もいらっしゃいます。私が被災地に通うのは、こういった人たちの笑顔を見たいからなんです」。

太田さんの話の中で、印象的なエピソードがある。
「あれは、震災が起きて早い段階で現地に行った時のこと。当時は、大切な人や住む家、これまで暮らしてきた土地などを失い、悲しみに暮れて方がたくさんいらっしゃいました。でも、皆さん必死に堪えて頑張っていたんだと思います。撮影をさせていただく前に私が『お体はいかがですか?』と声を掛けると、ある方は『大丈夫』と答えてくれました。でもその後、ぼそっと『本当は、もう生きたくない』と打ち明けてくれたんです。私は『生きてください』と伝え、その方は『分かった。生きる』と答えてくれた。部外者でさっき会ったばかりの私に本音を語ってくれたことが印象的でした。何でもない部外者だからこそ語ってくくれたのかもしれません。その時、彼らの悲しみや希望に寄り添いたいと思いましたし、被災者の方が少しでも楽な気持ちになれるように話を聞きたいと思ったんです」
テレビやニュースで報道される情報は断片的で、被災地の状況は伝わるが、そこに暮らす人の気持ち、言葉に出さない思いまでは伝えることが難しい。逆に太田さんの写真は、言葉では表現できない「何か」を感じる。それが彼女の写真に惹かれる理由なのかもしれない。
撮影を通して見つかった、自分なりの支援の形
現在は、全日本写真連盟の関東本部委員・岩手県本部委員長や、二科会写真部岩手支部長などを務めると共に後進の育成にもあたっている太田さん。
「ボランティアで、被災地の学校で教えることもあります。笑顔で質問する生徒さんたちの姿を見て、写真には人を明るくする力があるのだと感じますね。また、全日本写真連盟の釜石支部でも写真講座を受け持っていましたが、芸術祭でグランプリを獲る生徒たちも現れ、うれしい限りです」
最後に、東日本大震災を風化させないために必要なことについて伺った。
「東日本大震災の爪痕は大きなものです。大船渡市や釜石市など工場地帯では、復興が進んでいますが、大槌町や陸前高田市などは、いまだに東日本大震災の影響の中にあります。私にできるのは、被災地に足を運び続け、写真で被災者の方を勇気づけ笑顔になっていただくこと。そして、それを発信することで、多くの方に東日本大震災や災害について少しでも考えていただけたらと思います」
今、その瞬間しか撮れない写真。だからこそ、震災と被災地で復興に向けて歩き出す人々の様子を鮮明にとらえられることができるのかもしれない。太田さんにはこれからもたくさんの人たちの笑顔を撮影していただきたい。
〈プロフィール〉
太田信子(おおた・のぶこ)
岩手県・盛岡市在住。全日本写真連盟関東本部委員・岩手県本部委員長、一般社団法人二科会写真部会友・岩手支部長、盛岡芸術協会盛岡芸術祭写真部門審査委員長・写真部門代表。所属する各団体で、撮影会コンテストの審査指導、講評作成、日常の撮影指導などを行う。
連載【災害を風化させない】
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第1回 歴史的な一枚の写真が紡いだつながり。写真家・太田信子さんが撮り続ける理由
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第2回 福島の子どもたちの夢を応援したい。CHANNEL SQUAREの平学さんが目指す本当の「復興」とは
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第3回 ナナメの関係で子どもたちの「向学心」を育む。宮城県女川町で学び場づくりに取り組む女川向学館の想い
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第4回 心に傷を負った子どもたちには息の長い支援が必要。キッズドアが被災地で学習支援を続けるわけ
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第5回 熊本の復興を支援する元サッカー日本代表・巻誠一郎さんが伝えたい、被災地の今、災害の教訓
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第6回 地域との協働で「子育て」と「働く」を支援。トイボックスが目指す、人と人がつながり、自分のままで生きられる優しい社会
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第7回 漁師が集い、地域住民が交流し、子どもたちの笑顔があふれる場所に。「番屋」が牽引する地域復興
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第8回 被災地で広がる子どもの教育・体験格差。塾や習い事に使える「クーポン」で復興を支え続ける
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第9回 話しやすい「場づくり」で支援につなぐ。よか隊ネット熊本が大切にする被災者の声に寄り添う支援
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第10回 看護師として「精いっぱいできること」を。ボランティアナースの会「キャンナス」が大切にする被災者への寄り添い方
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第11回 「遊び」を通して、支え合うことの大切さを伝える。防災ゲームの開発に秘めた菅原清香さんの想い
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第12回 生活環境を改善し命を守る。災害医療ACT研究所が目指す、安心できる避難所づくり
- ※ 掲載情報は記事作成当時のものとなります。